「信行殿……」
呟いたきり、帰蝶は絶句してしまった。
なぜここに信行が居るのか。
以前現れたときは、信長暗殺の疑惑にて詮議の為に呼び付けられていたのを、帰蝶は後になって知った。
その時帰蝶はまさか、と言う思いを抱いたのだが、考えてみれば不思議ではない。
たぶん、信行の考えというよりは家臣たちに担がれているのだろう。
信行は信長と同じ土田御前を母に持ちながら、まったく似ていなかった。
容姿も、背が高すぎるくらい高く、少し痩せすぎではないかと思われる筋肉質な信長の体型と、中肉中背の信行。
キツイ目付きで人を寄せ付けない空気を纏っている信長。
信行はもっと柔らかで、育ちの良さがにじみ出ている。
むしろ跡取りの鷹揚さが出ているのは信行の方だった。
顔立ちは信長の方が土田御前に似て女顔だった。
色も白く、恐いほど綺麗な顔をしている。
信行も同じように色白だが、作ったような信長の綺麗な顔立ちに比べれば、同じように綺麗なのだが、もう少し平凡で柔和な感じだった。
親しみやすさは断然、信行の方が勝っているだろう。
その容姿と同じく性格も温和で、素直なものを帰蝶はいつも感じている。
けして陰謀を張り巡らせるような種類の人間ではない。
ではなぜか、というと。
間違いなくその守り役たちの浅慮なのだ。
しかも背後には、母の土田御前までが女の短慮で思い違いをしている。
信長は信行を嫌ってはいない。
むしろ利用されていることに胸を痛めているのを、帰蝶は感じていた。
その信行が……
「どうなされたのです?信行殿。うちの殿になにか……」
帰蝶が見咎めると、隠れるように立っていた信行がこちらに向かって歩いて来た。
奥には今、誰も居ない。
もとよりここには信長以外はあやめしか近寄らない場所だ。
いまあやめは奥には居ない。
帰蝶は少々緊張した。
信行と何度も会っているが、二人きりで会うのはこれがはじめてだ。
もちろん親密に言葉を交わしたことはない。
「殿は今、ここには居ないのですよ」
帰蝶は信長が居ないことを強調した。
ここへは信長の許可無しには誰も入れないことになっている。
どうやってここへ来たのか知らないが、たとえ信行といえど例外はない。
しかもいまは帰蝶ひとりで、城主の奥方が居室で一人の時に無断で近づくなど常識はずれだ。
帰蝶は居住まいを正して背を伸ばした。
凛としていると、武道をたしなむ帰蝶は女とは思えないほど隙がなくなる。
だがそんな事には関係ないように、信行はどんどん近づいてくる。
とうとう帰蝶の腕を掴むほどの距離に来た。
その不意に捕まれた腕を振り解こうとして帰蝶は失敗する。
凄い力だった。
しかもこの距離は夫婦でもないのに、非常識すぎる。
「義姉上……」
さっきと同じように呼びかけられて、帰蝶は背筋が寒くなる。
まるで他になにもみえないような、思い詰めたような眼差しと冷たい声だった。
「なんです」
帰蝶も負けずに言い返した。
なにかがおかしいが、気迫で負けるわけにはいかない。
この均衡が崩れたらまずいことは薄々感じはじめていた。
「なぜ来たんです」
「…………」
帰蝶には問われた意味がわからない。
「兄上は変わってしまわれた。貴方が来たからだ」
帰蝶は信行を見つめ返した。
信行は何を言いたいのだろうか。
「兄上は乱暴な人だったけれど、私たち兄弟には優しかったんだ。それが……変わってしまわれた。貴方が美濃から来て、貴方と貴方の実家にそそのかされてこの織田家を滅ぼそうとしている」
「なにを……」
帰蝶には信行が何を言っているのか、分からない。
「信行殿、なにか勘違いを……殿はそのような方ではありません」
「そうだ。兄はそんな人じゃない。貴方が来てから変わられてしまったんだ」
「ちがいますっ!なにか勘違いを…………」
「ではなぜ私を殺そうとなさるのだ」
「それは…………」
今ここで本人を目の前に、一言では言えない帰蝶だった。
元は家臣達の陰謀だった。
だがそれに、信行可愛さに荷担した土田御前。
はじめ信行に他意はなかったとしても、その家臣たちを押さえられず、母親の思惑に乗り、利用された罪は重い。
信長が怒るのも無理はない。
「殿は……信行殿を許したんです」
そう、あの信長が自分を殺そうとした人間を許したのだ。
やはり、母親と弟を殺すことは出来ずに、一旦は許した。
それなのにまだ渦中の陰謀は収まらない。
このままでは間違いなく信長は弟を殺さなくてはならなくなる。
「あなたの考えですか、義姉上」
「まさかっ、信行殿。何か考え違いをなさっています」
帰蝶は驚いた。
どこでそのような考えに至ったのか。
「いいえ、違いません。あなたが兄上を誑かしたのだ。そうに決まっている」
そう言いながら襲いかかってきた信行を避ける暇はなかった。
「何を……」
押し倒されて押さえ込まれたところを、かろうじて信行の手から帰蝶は逃れた。
見れば信行は刀を抜いている。
(拙いっ……)
帰蝶は部屋を見回したが、信長もいないこの部屋に太刀の類があろう筈もなく、多少腕に覚えのある帰蝶にも素手では躱しようがない。
いきなり切りかかられてかろうじて躱したが、袖が切り裂かれた。
しかも逃げようとした身体にもう一度降りた刀が、着物のすそを縫い止めている。
身動きできなくなった帰蝶は焦った。
着物を切り裂いてでも逃げようとした帰蝶と、捕まえようとした信行が掴み掛かった時、帰蝶の着物の前が肌蹴てしまった。
「あっ」
と叫んだのはどちらだったか。
驚いて信行が腕を放したのと、廊下の向こうから人の足音が聞こえてきたのはほとんど同時だった。
帰蝶はすばやく着物を引き寄せた。
裾は信行の刀ごと取り残されて裂けてしまったが、胸元は掻き合わせて押さえた。
そこへ来たのはあやめと信長だった。
物音と声で急ぎやってきたあやめの後ろにちょうど帰ったのか信長も続いている。
「姫さまっ!」
あやめの悲鳴と、
「ここで何をしているっ!」
信長の怒声が一緒に響いた。
その時、信長の後から藤吉郎も入ってきた。
あやめは自分の身体で隠すように帰蝶の体を抱いた。
帰蝶の方がひとまわり体が大きかったが、他の人間からはほとんど隠れた。
「信行っ!」
当然、信長はこの部屋に来たときに帰蝶の様子は目に入っている。
怒りは心頭に達していた。 |