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「そう怒るな」
信長は帰蝶の機嫌を取るようにそう言った。
あれから遠乗りに出ると、なぜか藤吉郎と名乗った男は付いてきた。
もちろん徒歩で。
機嫌を悪くした帰蝶が信長に構わず先に走り出すと、追いかける信長に続いて男も走る。
しばらく走ったあとで帰蝶は足を緩めた。
徒歩で付いてくる男をいつまでも走らせるほど、帰蝶は鬼ではない。
だがいまだに機嫌は直らなかった。
「何をそんなに怒る」
信長は面白そうに帰蝶を見た。
「あのような者を簡単に、お側などに置いて」
帰蝶にも最近は織田家の中の不穏な空気が伝わってくる。
以前、信行が呼ばれた訳もいまは知っている。
いまの信長はどちらを向いても敵だらけ。
なのに得体の知れない者を側に置くなど信じられない。
「俺を信用していないのか」
馬から下りて歩き出した帰蝶の腕を掴んで信長が言う。
珍しく強く乱暴に腕を捕まれて、帰蝶は信長を見上げる。
藤吉郎はよく心得ているのか、一定以上は二人に近寄らずに間隔を置いて付いてきた。
二人の会話は聞こえないだろう。
「そうではありません」
帰蝶も負けずにきつい目で睨んだ。
その表情を見て信長は表情を緩めた。
相変わらず帰蝶はきつい性格をしていた。
負けていない。
それが信長には面白い。

「あの者は……信用できるのですか……」
帰蝶が確認するように信長に問う。
「いったいなにを信用するのだ」
その問いかけに帰蝶は言葉を飲んだ。
「あの猿の人間性か?それとも俺への忠誠心か?そんなものが無意味なのはお前も承知しているだろう」
帰蝶に返す言葉はなかった。
親子兄弟でも裏切り、殺し合う戦国の世の中。
夫婦であろうと信用は出来ないのが常。
それを一家臣の信用をどうとか問いかけるのは、無意味で空しいことだ。
帰蝶の両親と弟たちは兄に殺された。
兄に従ったのは、かつては父の配下だった家臣達だ。
信長の背後では、譜代の家臣が実の弟信行を担ぎ出して、信長の暗殺を企んでいる。
「意味がない……ですね」
帰蝶は目線を落とした。
「だが信用できるものもある」
そんな帰蝶を見て信長は言った。
「少なくともあの男は使える。そしていまはその才能を俺のために使おうとしている。面白い男だな。諸国を回っていろんな国を見てきたんだそうだ。それで俺がいいと思ったんだそうだ」
帰蝶は信長のかなり後方で、片膝を付いたまま控えている猿に似た男を見た。
「面白いだろう。この俺を、俺の才能を見抜いたのだ。家中の者さえ馬鹿呼ばわりしていた俺をな……」
信長は面白そうに言った。
「帰蝶……この世に決まったものなど無い」
自虐的にそう切り出した信長を帰蝶は見つめる。
「なにが正しい。何を信用する。何を望む。この世に当たり前のものなど無い」
そう一息つくと、最後に言った。
「お前とこの俺が、なにより証明しているではないか」




◇◇◇




帰蝶は穏やかな日差しの中、膝を崩し、縁の柱に凭れて庭を眺めていた。
城主の奥方としては行儀が悪いのかも知れないが、最近は奥に居るときは女で居ることに拘らなくなった。
この居室には基本的に信長と帰蝶夫婦の他にはあやめしか近寄らない。
呼ばない限りは立ち入るなという信長の命令だった。
それは帰蝶が一日中、緊張しなくてもいいようにと言う信長の配慮でもあった。
帰蝶はそれに甘えて、ここでは自由にしている。
身につけているものはもちろん女物だが、ここでは言葉遣いも振る舞いもそれほど神経質にならなくていい。
それは正直言ってかなり助かっている。

(俺はなにものなんだろう……)
いまだにそんな問いを自分に投げるときがある。
そのままでいいと言ってくれたのは信長だ。
父道三は後悔もしていたようだった。
だが間違いなく男として育っていたら、ここにこうしていなかったし、すでに生きてもいなかっただろう。
不思議な運命と縁(えにし)。
『この世に決まったものなど無い』
あの日、帰蝶にそう言った信長の言葉は正しい。
明日の自分さえわからないではないか。
あの日から帰蝶の藤吉郎に対する印象が変わった。
胡散臭くて信用できなかったのだが、見方を変えれば、確かに面白い男だ。
建前ばかりの家臣達よりもよほど頼りになるのかも知れない。
藤吉郎は諸国を回って、信長の気に入る話を仕入れたらしく、すぐに家臣になった。
厩番をしていたかと思ったら、次には台所で勘定方をしていた。
会うたびに少しずつ出世しているらしいのには笑える。
そしていまではたまに、この奥に来ることさえ許されている。
信長が機嫌のいいときには、ここへ呼ばれていろいろな話をしていく。
諸国の話、城内の話。
その中で帰蝶は意外にも、人の噂話に大事な真実が隠れていることを知る。
情報というものがいかに大切か、信長と藤吉郎の話を横で聞いていて帰蝶は肌で感じていた。

藤吉郎は帰蝶の何かを感づいているかも知れない。
帰蝶がそう思うのはやはり感だった。
あの聡い男が信長と帰蝶の奇妙な関係に気づかないはずはない。
帰蝶と信長は夫婦としてはかなり変なはずだ。
信長は政治的、軍事的な話を帰蝶の前で説明し、語る。
普通はあり得ない。
帰蝶も求められれば意見を言うし、信長がそれを参考にするときもある。
他の家臣には見せられない光景だ。
だが猿は賢いらしく、余計な口は挟まない。
それがまた信長に気に入られている所以だった。
とりとめのない考えの中、帰蝶はまたあの視線を感じる。
そんなはずはない、と思いつついまは花のない桜の大木に目を遣る。
居ないはずの人間に帰蝶は驚いた。
「義姉上」
「信行殿……」
木の陰に佇む信長の弟、信行を見て帰蝶は絶句した。