<3>

帰蝶は実家の家族をすべて失った。
父と母、二人の弟。
残った実家は夫の敵となった義理の兄がいるのみ。
もう帰る家はないも同然。
おそらく帰蝶が男として育ったならば、弟たちと同様死んでいただろう。
自分が女として尾張にいる理由を帰蝶はひとり家族を弔いながら考えていた。
自然と塞ぎ込む日も多くなった帰蝶を信長は度々外へ連れだしていた。
「今日は城下(まち)へ出てみないか」
人目のないところへ遠乗りに行くことはあったが、人混みへ出たことはまだなかった。
なぜなら御台所が簡単に外へ出ることなど考えられない時代だったからだ。
信長は昔のような奇抜な格好はもう辞めたものの、たまに浪人のような風情でふらりと城下を見回ることが多かった。
「面白いものを見せてやる」
そう言って帰蝶を連れだした。
供は前田犬千代という子供の頃から信長に使えている小姓の若者ひとり。
信長には常に行動を共にする若武者が数人いた。
特に犬千代はその中でも信長のお気に入りのひとりだった。
帰蝶も女物の着物を脱いで、小姓姿になる。
昔は良くこんな格好で馬を走らせたが、輿入れしてからはさすがにそんなことはなかった。
だが本来はこちらが本当の姿である。
似合いすぎる格好に信長も満足げだった。
「いいのですか、殿」
「なんだ」
「犬千代殿も一緒なのですよ」
「かまわん、よけいな詮索はしない奴だ」
「ですが……」
確かによけいなことを煩く言わないところが信長に気に入られている犬千代だった。
頭も良いので信長の機嫌を損ねるようなことは言わない。
帰蝶の姿を見て一瞬目を見張ったが、なにも言わずに黙ってあとに続いた。
むしろ帰蝶の方が最初は居心地が悪くて困った。
それでも久しぶりの活気のある町には心が浮き立つ。
美濃も父が自由に商人を出入りさせていたためににぎやかだったが、ここ尾張も相当なものだった。
にぎやかで市が盛んだと言うことは、人の出入りが多いと言うことである。
もちろん物も豊富になって人の暮らしも豊かになるが、それ以上に情報が入りやすくなる。
通信が何も発達していないこの時代、とにかく情報をもたらすのは人の口だった。
つまり人の出入りが多ければ多いほど、諸国の情報も入りやすい。
信長が出歩くのは、自分の国を見て回ることよりも、この人の流れと情報を掴むことを主としていた。
帰蝶もそんな市を珍しげに眺めていたとき、
「お殿様、お久しぶりでございます」
信長をそう言って呼び止めた物売りがいた。
信長は足を止めるとその物売りを眺めた。
「おまえか」
思い出した素振りに物売りは嬉しそうな表情をした。
「なんか面白い物があるか」
信長がそう言うと、
「美濃のお方は勢いに乗っていらっしゃるようです」
信長はじっと聞いている。
すると、
「奥方様にこれはいかがでしょうか」
いきなり商売の話をし出した。
信長が睨んでいると、
「奥方様は傷心でいらっしゃるので、気晴らしをなさっているのでしょう」
帰蝶は思わず半歩下がる素振りをしてしまった。
(この男……)
「ご愁傷様でした。お父上はたいへん素晴らしい方でしたのに……」
その言葉を聞いて焦る帰蝶と、さすがに表情も変えずに睨む信長は
「まったく食えん男だな……気づいておったのか」
「へぇ、実は美濃の方にも良く行きましたので。
奥方様はお国にいらっしゃる頃、よくお忍びでお出かけになっていましたよね。実は噂も出ていたんですよ。道三様にはお子がたくさんいらっしゃるのでいずれかのお子さまだろうと。
ただ私はお城に顔を出させていただいたことがありましてね。そのときに姫様をお見かけしています。小姓姿でお出かけの姿を見たときに姫様だとすぐに気が付きました。
さすがに尾張ではお見かけしませんでしたが」
「当たり前だ、御台所がそうそう簡単に出歩けるか」
信長は隠すつもりがないらしくそう答えた。
「ですが、人目のないところにはお出かけなのでしょう」
油断のない顔をして男はそう呟く。
信長が一瞬殺気立ったのがわかって帰蝶も強ばった。
だが男は気づかない振りで、
「もちろん、そんなことをどこかでしゃべったりはしませんから」
のうのうとそんなことを言った。
「仕方がない、それを買おうか」
その信長の言葉に、
「はい」
と男は嬉しそうに答えて、
「他には……」
と抜かりのない顔で言った。
この上何か売りつける気なのかと帰蝶が呆れたとき、
「尾張と美濃を一周してまいれ」
信長はそんなことを言った。
「またですか」
「いますぐだ。これからすぐに店を畳んで行け」
「なるほど……」
男は何を納得したのか頷いた。
「済んだらお城に伺ってもよろしいので」
「面白い話が土産ならば、城の中でお前の仕事もあるかもしれんぞ」
「それはありがたいです。是非お願いしたい」
「俺を喜ばせたらだぞ」
「もちろんわかっております」
「まだ俺は遠出をする気はないからな」
信長は意味不明なことを呟いた。
「それがよろしいかと、遠くよりもお近くがよろしいですよ」
その言葉に信長が反応する。
「近く……な」
「お気をつけて……お出掛けなさいませ」
真剣な表情の男に
「そうしよう」
信長もそう答えた。
帰蝶にはその会話の意味が分からない。
しかし男はすでに店を畳んで支度を始めた。
露天の店などあっという間になくなってしまった。
男は信長の近くに寄ると、
「私は必ずお役に立つ人間ですよ」
そう囁いて人混みに紛れていってしまった。
「殿……」
そのときずっと後ろに控えていた犬千代が、控えめに信長に声を掛ける。
「あのままでよろしいので?」
帰蝶はその言葉に緊張したが、
「いい。放って置け」
信長はあっさりそう言うと、男に押しつけられた簪(かんざし)を帰蝶に渡した。


◇◇◇



城に戻って。
「殿、あの者は?」
帰蝶もさすがに気になって信長に尋ねた。
「面白い男であろう?」
「面白いというか……」
帰蝶には面白いとまでは思えなかった。
「面白くないか?猿のような顔をして」
「殿っ」
信長は男の面構えを言ったらしい。
確かに顔は面白い顔をしていた。
「油断のならない男です」
帰蝶はからかわれたのかと思い、そう言ったが、
「油断のならないところが面白いのだ」
信長はそう言う。
「どうなさるおつもりです」
「さぁ、どうするかな」
信長はそれ以上なにも言わなかったが、二ヶ月後。
帰蝶はとんでもない場所で男と出会う。
信長に誘われて楓で遠乗りをしようとすると、楓を厩から出してきたのはなんとあの男であった。
「お前はっ」
思わず帰蝶が叫ぶと、
「奥方様、いまは馬番をしている木下藤吉郎と言います」
男は頭を下げた。
「なんと……」
呆れた帰蝶は、思わず後ろから来た信長を睨み付けていた。


−綺譚メモ帳−

お久しぶりのメモ帳です。
実は今回はちょっと時系列をズルしているシーンとかありまして(笑)
メモ帳は控えさせていただいてます。
説明が苦しくなっちゃうから(爆)
ですので人物についてだけ……
木下藤吉郎、登場です。
ご存じ豊臣秀吉は農民から物売りをして諸国を回って主を探しているときに信長に出会い、惚れて無理矢理家来にと、自分を売り込みます。
綺譚ではあくまで脇役ですのでたまに名前が登場するくらいかも知れませんが、私は藤吉郎、帰蝶の正体に気づいていたんでは……とそんな気がします(笑)
抜け目ない男ですからね。
さて、例のごとく予定よりも長くなっております。
最初の予定ではこの章で織田のお家騒動までもって行くはずだったのですが、猿まで登場してしまい、ちょっと手間取っています。
弟信行との決着はどうやら次まで持ち越しのようです。
この章はあと一、二話続きます。
もう少しおつきあい下さいませ。