それより少し時間は遡る。
信長と帰蝶の父道三が無事会見を終えた後、三年ほどは帰蝶にとっても信長にとっても肉親の憎愛を断ち切らなければならない、慟哭の日々であった。
信長と会見をした道三はその後、息子義龍に家督を譲り隠居した。
家督を譲ったと言えば聞こえはいいが、帰蝶とは腹違いのこの兄はずっと父を憎んでいた。
父道三が自分の本当の父ではなく、主殺しの犯人で、自分はその主筋の子供ではないかとずっと疑っていたのだ。
帰蝶は本当のところは知らない。
兄弟と言っても兄とはほとんど口を利いたこともないし、父にその真実を問うたこともなかった。
もっとも事実であってもこの時代、たとえ親兄弟でも殺し合う時代だと言うのに、主殺しなどで騒ぐほどのことでもなかった。
だが兄にとっては違ったのだろう。
もちろん兄が父の子でないのなら、敵だというのも頷けるが。
その兄はとうとう父を追い出したらしい。
あの父がなぜ素直にそれに従ってしまったのかは帰蝶には疑問だったが。
帰蝶はその知らせを信長から聞いたときに念を押された。
「覚悟は必要かもしれんぞ……」
それは父道三が死ぬかも知れないと言う信長の考えだった。
戦国の世は食うか食われるか。
主従であろうと、親子兄弟であろうと、強いものが勝つ。
弱いものは去って行かねばならない。
帰蝶もその習いは身に染みていた。
覚悟を決めた帰蝶はそれでも神仏に祈るくらいしかできない。
父の元には母もいる。
弟もいた。
自分が男のままなら一緒に闘ったのかも知れない。
それが何をどう間違えてしまったのか。
信長の元に来たことを悔やんではいないが、それでも父の元に行けない自分を歯がゆく思っていた。
帰蝶に出来ることは本当に少なかった。
そんな帰蝶を見て、
「お前の父は、俺が必ず助ける」
信長は力強く、そう言ってくれたが。
今度は信長が無茶をしないかと心配になる。
どちらにしても祈ることしかできないのだと、帰蝶は自分に言い聞かせるしかなかった。
その朝もひとり、実家と信長の無事を願っていた帰蝶はふと視線を感じた。
武家に生まれたものとして、人の気配には敏感である。
庭先の茂みに立つ影を見て、帰蝶は記憶を呼び起こす。
「信行さま?」
微かに捕らえた影は信長の弟、信行らしかった。
末森の城主になっている信行がなぜここ清洲にいるのかわからなかったが、間違いはないと思った。
その夜、帰蝶は信長に尋ねた。
「信行が?」
「はい、間違いないと思うのですが……」
その日見かけた人影のことを話すと信長は、
「お前の姿でものぞきに来たのではないのか?」
笑いながらそう言って驚きもしない。
「冗談は止めて下さい!それより信行さまはこちらにいらしているのですか?」
「あぁ、ちょっとな。聞きたいことがあって呼び出した。すぐに帰ると思うが」
「そうなのですか」
帰蝶は疑問に思うことがいくつかあったのだが、聞かずにおいた。
まだこのときの帰蝶は、織田家の中で陰謀が形になっていることに気づいてはいなかった。
翌朝、珍しく信長と共にゆっくり過ごしていると、また気配を感じた。
目線をやると隠れることもせずに木の陰からこちらを見ている信行と目があった。
(恐い目……)
帰蝶はそのときそう思った。
それがどうしてなのかと言うことを考えもしなかったのだが。
「殿……」
小声で囁くと、信長はとうに気づいていたらしく、
「ほうっておけ」
そう言って、不意に帰蝶を抱き寄せた。
「殿!ふざけないでくださいっ」
予想外のその行動に帰蝶は信長を睨み付けた。
「恐いなぁ……帰蝶。この信長を睨むのはお前くらいだぞ」
呆れた信長の声に、
「殿がふざけるからですっ」
そのまま帰蝶はつんと横を向いた。
夜ならともかく、朝の光の中で、しかも信行が見ているかも知れないのに。
そう思うと、信長の悪ふざけも許せない。
気づけば、信行の影はなかった。
「なぜ、信行さまはあんな所から……」
用があるなら来ればいいのに。
そう疑問に思う帰蝶に、
「だから信行は美しいお前を盗み見に来たんだよ。
唯一、この信長が頭の上がらない綺麗な妻の顔をな……」
信長はそう呟く。
「殿、お世辞はけっこうです」
「相変わらず、きついなぁお前は」
それでも信長は満足そうに帰蝶を見て微笑んでいた。
それからしばらくして。
信長の元に父道三から遺言状が届いた。
そこには『美濃は娘婿、織田信長に譲る』と書いてあった。
この時代、そんな遺言状などなんの効力も持たない。
実力のあるもの、力のあるものが奪い取るだけの世界。
そんな中生き抜いている父道三と、信長が意味がないと承知の上で差し出し、受け取った遺言。
その意味を考えて帰蝶は涙が止まらない。
父は唯一、自分の跡を継げるものは信長しかいないと認め、信長もそんな道三を尊敬し、意思を尊重してくれた。
他の武将が聞いたら笑うかも知れない、それでもいい。
父と信長は男として、優れた武将としてお互いを認め合ったのだ。
そしてその数ヶ月後。
父道三は兄義龍に破れ亡くなった。
母と弟も亡くなり、母の実家、明智家も崩壊した。
従兄弟の明智光秀はこのとき行方不明になった。
「すまなかったな」
信長が間に合わなかったことを悔いて詫びてくれたが、帰蝶は首を振った。
「いいえ、父はそんなことを望んではいませんでした」
父道三は、信長に前もって深追いはするなと釘を差していた。
必ず道三を助けに信長が来ることを知っていて、『形だけでよいのだ、世間向けに義理を果たせばそれでいい。損をすることはない』
美濃攻めは時期尚早とみて、形だけ進軍すればよいと使いをよこしていた。
絶対に深追いはならぬ、時代を読め、とくれぐれも申し伝えていた。
だが信長は引き下がるような男ではない。
もちろん道三を助けるつもりで出兵したのだが、やはり戦は不利で道三を助けるあと一歩と言うところで引き下がった。
道三討ち死に。
そう聞いては最早、進軍の意味はなかった。
人間として、男として惚れたからどうしても助けたかった。
帰蝶の父だから助けたかった。
信長の中には理由はいくつもあった。
だが叶わなかった。
無理を承知で挙兵したが、やはりいまの美濃勢(義龍)には叶わない。
信長は自分の非力さを嘆いたが仕方がない。
道三の遺体は長良川を流れていったという。
「オヤジ殿は自分の葬式まで自分で済ませてしまったわ」
信長流の言葉で、そう帰蝶に告げてあとは絶句した。
帰蝶は泣きながら言った。
「殿……このご恩は一生忘れません」
織田の領内でさえいまは大事なときに、危険を承知で挙兵してくれた信長に感謝以外のなにものも帰蝶には浮かばなかった。
元々父が助かるとは思っていない。
「老兵は去るのみ……」
父ならば、必ずそう思ったに違いない。
新しい時代を信長に託したのだと帰蝶にはわかる。
美濃まで出かけてくれた、それだけで嬉しかった。
『残った家臣は婿に付くが良い。義龍についても良いが、息子はいずれ婿殿に滅ぼされる身』
父道三はそうも言い残したという。
帰蝶はその言葉を聞いて、自分の父と信長を誰に恥じることなく、胸を張れると思った。
父の意志を継ぐのは信長。
帰蝶の中でも京の都が少し近づいた日でもあった。
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