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「そんなに心配しなくていい」
帰蝶は信長の胸の中でその言葉を聞いた。
けれど不安は消えない。
「蝮が俺に会いたいというのはなにも俺を殺したいからではないだろう」
「そんなことわかりませぬ」
帰蝶は強い調子で言い返した。
「自分の父なのに信用しないのだな」
信長は苦笑した。
「自分の父だからわかります」
帰蝶は譲るつもりはなかった。
「俺はおまえの父親に興味がある」
「……」
「おまえを知れば知るほど……な、興味が出たよ」
「と……の?」
「おまえの父は時勢が読めぬほど馬鹿な男ではあるまい?むやみに俺を殺そうなどとは思わんよ」
信長は帰蝶の背を優しくなでて言った。
「心配しなくていい」
帰蝶は父にほぼ定期的に手紙を書いていた。
日常の他愛もないことがほとんどだった。
誰に読まれるかわからない手紙に重要なことを書く馬鹿は居ないし、いまの帰蝶には尾張の事を父に報告する気持ちは全くない。
手紙の内容も時節の挨拶と、最近では信長を褒めちぎることしか書いていない。
いささか惚気とも取れる内容を臆面もなく帰蝶は書きつづって父に送っていた。
その気持ちの裏側には父に尾張や信長を攻めて欲しくない気持ちがあった。
父は帰蝶に失望しているかもしれない。
たった数年で信長以上に大切なものがなくなってしまった帰蝶に、裏切られたと思っているかもしれない。
それでも帰蝶は手紙を送り続けなければいられなかった。
父は呆れているかもしれないが。
信長と父の対面する日は二週間後だった。
急ぎ帰蝶は父に手紙を書いた。
信長をよろしくという、いささか心許ないような表現しかできなかったが、その文の最後にこうしたためた。
‘もう美濃へ帰る気はありません’
この言葉にすべての気持ちを込めた。
その後帰蝶はあやめやその他の侍女達を総動員させて信長の支度に取りかかった。
父道三はあれでなかなかの常識人である。
そして若い頃から諸国を回って、知識を集めると供に、各地の文化や芸能にも秀でている。
帰蝶もこの期に及んで夫信長にケチを付けられたくなかった。
信長に一緒に連れていって欲しいと強請ったが、当たり前に断られてしまった。
もちろん常識から言っても無理なことはわかっていた。
敵国に嫁いだものがおいそれと故国に足を踏み入れることなど出来るはずがない。
それでも言わずにいられなかったのだ。
無理だとなると帰蝶に出来ることは限られてくる。
帰蝶は当日の信長の支度と、人選に持てる知識をフル回転させた。
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信長が出立する朝。
さすがの帰蝶も目をつり上げた。
「殿……まさか今日もその格好でお出かけになるつもりですか?」
「そのつもりだが」
帰蝶は大きな溜息を吐き出した。
もしや、とは思っていた。
だからこそ帰蝶は支度に余念がなかったのだが。
今更ながら信長がなにを考えているのか理解に苦しむ。
信長は今日もいつもと同じ出で立ちだった。
つまり髪は茶筅縛りのまま、馬に乗る頃には荒縄で腰を縛ったまま、腰回りに訳の分からぬものをいくつもぶる下げるつもりなのであろう。
つまりいつもと変わらぬ格好なのだ。
今日が蝮の道三との面会日だというのにだ。
しかもこのところの信長の気に入りの着物と言ったら、帰蝶の小袖なのだ。
帰蝶の衣装は父道三が洒落ものの噂に違わず、京でそろえさせた豪奢な小袖や打ち掛けを嫁入りの時に持たせたものだ。
こちらに来てからも季節の変わり目には美濃から、または京から直接新しいものが送られてきていた。
現代で言えば最新流行のものだった。
信長は部屋にいるときに、その帰蝶の小袖を素肌の上に纏い、打ち掛けすら羽織ることがある。
野山を駈けるときも女物の派手な小袖を羽織り、無造作に腰を縛った姿で馬に跨る信長は、けれど妙に美しかった。
赤い着物が一番似合うのもなんだか不思議だ。
信長と暮らして彼にはタブーがないことを知った帰蝶だが、さすがにこの衣装の件はやめさせようとした。
信長の奇行に慣れている家臣達でさえ今更ながらに目を剥いていた。
最近では帰蝶まで白い目で見られる。
やめさせたいのだが、やはり無駄だった。
信長は信長でしかない。
最近では妙にそんな納得の仕方を覚えてしまった帰蝶だった。
なにをやっても自分のものにしてしまう信長に感心してしまい、しまいには自分よりも似合っていると思えてくる始末だった。
だが今日は違う。
けれど言い出したら聞かない信長の性格も知り抜いていた。
「殿……いいですか、父道三に面会するときの事は供のものによく言ってありますから、必ず言うとおりにして下さいね」
「このまま出かけてもいいのか?」
面白そうに信長が尋ねる。
「どうせ私の言うことなど聞いては下さらないくせに」
周りの侍女達も目を丸くしている。
「あちらに付くまではお好きになさいませ、けれど父に会うときは……いいですね」
信長はまるでなにもかも見透かすように微笑んだ。
その笑い方は少しだけ口の端を上げて笑うのだが、見ようによっては酷く冷酷にも皮肉にも見える笑みだった。
けれど帰蝶にはわかっていた。
こういう笑い方をするときは先の成り行きを面白がっているときなのだ。
信長は酷く自分や自分の周りを突き放したように客観的に捕らえるときがある。
そんなときによく見せる笑みなのだ。
たぶん信長は帰蝶がこの二週間、支度に奔走していたことを知っている。
知っていて黙っていたし、今朝もこの格好で現れたのだ。
帰蝶も覚悟を決めた。
「殿、行ってらっしゃいませ」
微笑んで信長を送り出した。
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