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帰蝶は庭で桜の木を見上げる信長を見つめていた。
平手が切腹したのは信秀が死んだ二年後、三ヶ月ほど前のことだった。
あの日の信長を帰蝶は忘れることは出来ない。
父信秀が死んだときも、信長にあったのは静かな怒りだけであった。
父と言うよりは武将としての信秀の死を哀しんでいた。
けれど平手が死んだあのときの信長を満たしていたのは悲しみ以外なかった。
‘慟哭’と言うものを帰蝶は初めて目にした。
あわてて駆けつけた信長に付いていった帰蝶は、あまりの惨状に止める平手の家臣達を振り切り遺体に近寄る信長を、やはり引き留める家臣の手を振り払って凝視した。
すべてを見なければいけないと思ったのだ。
そこは一面の朱に染まっていた。
帰蝶は瞬間、異空間に紛れ込んだのかと思ったほどだった。
帰蝶がこのような惨状を目の当たりにしたのは初めてだった。
道三の子供とはいえ、帰蝶は姫として育てられた。
戦に同行したこともなければ、普段は屋敷の奥で大事に育てられてきた。
これほど身近で凄惨な‘死’を見たのは初めてだった。
その‘朱’の中に信長が居た。
血の海に横たわる死体は人間と言うよりはむしろ、すでに物体と化していた。
その真っ赤な骸を信長は抱いていた。
信長の居る場所は赤い海になっていた。
信長の身体も顔も赤く染まり、知らぬ人が見たら誰だかわからないだろう。
そこに漂うのは血と内臓が腐ってゆく臭い。
異様な色に異様な臭気。
その中で人間とは思えないほどの慟哭を放つ信長。
帰蝶はしばらく放心状態でそれを見つめていた。
その後しばらくの間、帰蝶は夢見が悪かった。
あまりに強烈なものを見てしまい、不眠に陥ったのだ。
信長の衝撃はそれ以上に違いなかった。
だが信長はあの日以降、家臣にもそれとは気づかせなかった。
取り乱したあの一瞬以降は平静を取り戻していた。
ただ帰蝶の前で無口になった。
いつも皮肉を言って帰蝶を困らせる信長は消えていた。
豪快に笑うときはどこまでも明るくなる声も聞いていない。
帰蝶だけが知る、穏やかに微笑む綺麗な面も……見ていない。
帰蝶もそんな信長に掛ける言葉もない。
この三月の間、二人の間にほとんど言葉はなく、けれど信長は眠るとき帰蝶をなおさらはなさなくなった。
抱き枕は一層必要になったようだった。
帰蝶はそんな信長に必死に応えようとした。
掛ける言葉もないのが情けないが、せめて自分の存在が何かの役に立つなら。
ただそれだけを思って。
桜の花びらが舞う中に立ちつくす信長は、なにを思っているのだろうか。
帰蝶は思う。
なぜ平手はもう少し待っていてくれなかったのか。
帰蝶が一生をかけようと思ったその人は、絶対に何かをやり遂げる人だった。
けして‘うつけ’などではない。
平手は一番理解していたのではなかったのか。
彼はただの守り役ではない。
織田家にその人ありと周囲に認められた人物だ。
帰蝶を尾張に嫁がせる画策をした人物である。
父道三も一目置いていた人間だった。
亡くなった信秀もそんな大事な家老を信長の守り役にずっと付けていたのはそれなりに考えがあったからだと思われる。
あと少しなのに。
なぜもう少しだけ辛抱してはくれなかったのか。
帰蝶は悔しくて眠れぬ日が続いた。
あれから面やつれした信長だったが、桜の木の下で佇む姿は相変わらず美しかった。
(綺麗で、強くて、そして哀しい人……)
帰蝶はずっと信長を見つめ続けていた。
◇◆◇―――――――――――――――――――――――◇◆◇
その一週間後。
野駆けに行っていた信長が久しぶりに勢いよく戻ってきたかと思うと、
「帰蝶、帰蝶!!」
まだ姿も現さぬうちから廊下の向こうで呼ぶ声がする。
あやめが急ぎ主君を迎える用意をし、帰蝶は立ち上がって向かえに出ようかとしたとき、すでに信長は姿を現していた。
(殿は相変わらず……)
帰蝶は心の中で苦笑していた。
信長はせっかちである。
短気と言うよりはせっかちで、それはおそらく恐ろしいほどに頭の回転が速いための副産物なのだ。
早い行動の裏には、それ以上に早いその思考故なのだと帰蝶にはわかっている。
だから信長のそれを不快に思ったことはなかった。
自分もその早さについて行かねばならないと言い聞かせてはいたが。
「お帰りなさいませ」
他の侍女の手前もあってことさら丁寧に向かえる。
二人きりの時は信長もいやがるのでもっとうち解けているのだが。
「俺は行くぞ」
「どこへでございますか?」
信長の思考について行くには、それなりの頭の回転と勘の良さが必要だった。
いつでも目的が見えないままの会話になる。
「おまえの父上に会ってくる」
「父に……道三に……でございますか?」
「そうだ」
「おやめなさいませ!」
いつになくきつく帰蝶は咎めた。
「なぜだ」
信長は帰蝶の顔色にも頓着せずにのんびりと尋ねる。
「あれは蝮です」
「そんなことはわかっておる」
「まむしの毒で死んだらどうするのです」
信長は何だそんなことかと面白そうに帰蝶を見つめている。
気づけばいつものようにからかうような、皮肉な表情を浮かべて以前の信長に戻っている。
だが帰蝶は必死だった。
冗談ではない。
父道三が今なお信長に対してどんな思いを抱いているのかわからない。
しかも信秀や平手が亡くなっているのだ。
いまの信長には後ろ盾や知恵袋が付いていなかった。
そんな裸のような状態で信長を父の元へやるわけには行かない。
「帰蝶」
そんな帰蝶を見て信長が笑った。
「笑い事ではありません!」
いまの帰蝶には信長のからかいに応じている余裕はなかった。
「そんなに怖い顔をするな。俺はおまえの夫だぞ」
「わかっております」
「婿が舅に会いにゆくのだ。そんなに心配しなくても大丈夫だ」
「殿は父を知らないのです」
帰蝶は父が好きだったが、父道三の恐ろしさもよく知っていた。
もし信長に何かあったら……恐くて帰蝶には想像すら出来なかった。
「帰蝶」
そのとき信長が不意に帰蝶を抱きしめた。
驚いた帰蝶が振り仰ぐと信長は帰蝶だけに見せる穏やかな笑みを浮かべている。
信長の胸は日向の匂いがしていた。
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