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信長の胸の中は昼間と同じ、温もりと匂いがした。
帰蝶に妙な安心感を与える物だった。
「帰蝶…お前の答えはよく出来ている。たぶん家中でお前以上の答えを出せる奴も俺のことを理解する奴も居まい」
信長は嬉しそうに笑った。
「だが、あと一歩だな。詰めが甘いぞ。俺は攻めてくる敵を待ったりはしない。こちらから仕掛けるのみだ」
「ですが、との…」
そんな信長の性格は百も承知の帰蝶だった。
けれど今は時期が悪すぎる。
体制も整っていない信長が周りの強敵に対して何が出来るというのだ。
「そうだ、お前が思っているようにちょっと頭の働く奴なら俺が今どうすべきか知っているさ」
「だから…ですか…」
「そうだ、裏を掻くには一番いいだろう?」
「だが、危険すぎるっ」
帰蝶は信長の腕の中で抗議した。
ひとつ間違えば文字どおり命取りだった。
「そんな危険な賭けをあなたにさせられない」
「帰蝶、俺に付いてきたいか」
「もちろんです」
「だったら常識は捨てろ」
「でも…」
「誰でも考えることでは好機は掴めない、人と同じでは生き残れない、凡人は罪だと思え」
「わかってます、わかってる…けど…」
帰蝶はなおも食い下がった。
不安げな帰蝶を見下ろして信長はなおも言った。
「俺は天下を取る、それに付いてくる気なら…帰蝶…」
信長に言われ、帰蝶は見つめかえした。
「帰蝶…俺に付いてくるなら、腹を括れ。尋常な死に方は出来んかもしれん」
帰蝶はじっと見つめかえしたまま動かなかった。
動けなかったのだ。
体中に熱いものが走った。
信長はいま、なんと言った?
「帰蝶?」
信長はいつになく優しい表情をしていた。
きつい言葉とは裏腹に帰蝶を優しく見つめていた。
「来るか?」
「はいっ」
言葉を返したとたんに、いっそう強く抱きしめられた。
身体が折れるかと思う。
そのまま信長は動かなかった。
「との?」
帰蝶の問い掛けに、
「しばらく…このままいさせてくれ…」
信長の言葉にさっきとは違う意味で熱いものが帰蝶の胸に溢れる。
こんな信長の真意をいったい誰が知っているというのか。
そもそも本当の信長を知るものなど、どこに居るというのか。
死んだ信秀は分かっていたのだろうか。
自分の息子の偉大さを。
平手はいつか分かってくれるだろうか。
誰にも理解されない信長が憐れだった。
帰蝶はこんなに綺麗で哀しい人を他に知らなかった。
「俺を…」
「なんだ」
「俺をいつでも一番側に置いてくれますか?いつでもあなたの側に、どんな時も…」
「お前がそうしたいならな」
帰蝶にも確実に分かっていることがある。
信長はけして嘘を付かない人だった。
帰蝶の危惧した通りに時代の動きは早かった。
信秀の法要を済ませていくその間も、織田家に人質としてきていた松平竹千代(後の徳川家康)が今川に戻って行った。
やはり織田の小競り合いを見ていた今川義元が好機とばかりに、織田の領地に攻め入ってきたのだ。
信長の腹違いの兄が今川の人質となり、竹千代と交換ということになった。
その時信長は弟の信行のこともあり、身動きが出来ない状態で、弟のように可愛がっていた竹千代を手放すしかなかった。
美濃の道三も着実にその領地を広げ、次は信長の居る尾張をどうするつもりなのか?と言うところまで来ていた。
「帰蝶、蝮はどうするつもりかな?」
「さぁ、どうなのでしょう」
「お前も蝮と同じで食えんな」
信長は機嫌がよさそうに笑う。
「あの父の考えてることは、俺にも分かりませんよ」
だが帰蝶はそう言いながら、最近は父への便りに必ず信長のこを書いて誉めちぎっている。
惚気と取られてもいい。
先のことはわからないが、できればやはり父と信長が争うようなことは避けて欲しいと思うのが本音である。
万が一の覚悟は出来てはいるが。
そんな事を考えている時にあやめがあわてた様子でやってきて
「殿さま、平手様がお見えに…」
「爺か?」
「いえそれが…」
あやめが答えぬうちに
「失礼、申し上げますっ!」
あわただしく入ってきたのは平手の三男、甚左衛門だった。
「なにごとだ」
「殿っ、申し上げます…父、政秀が…自害いたしましたっ!」
「なにっ!!」
父親の死の知らせにも動揺を見せなかった信長が、慌てて立ち上がり腰が抜けたように据わり込んだ。
「まさか…」
信じられれぬように呟く信長を、帰蝶もその死を信じられないように見つめた
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