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河原には強い風が吹いていて、土手で咲く桜の木が花びらを散らしていた。
信長は川面を見詰めたまま動かない。
見つめているというよりは睨んでいるようだった。
帰蝶は信長の背中を見つめて佇んでいた。
強引に葬儀の場所から連れ出されたあと、馬の背に一緒に乗せられてここまで来たが、それ以来信長は一言も口を利いていない。
何も言わない背中が何よりも信長の気持ちを伝えているようで、帰蝶は苦しかった。
それでも帰蝶は黙ったままそこに立ち続けた。
まだ肌寒い風に身体が冷えてしまった頃、信長はやっと身動きをした。
帰蝶に近づくと、自分の羽織っていた衣を一枚脱ぎ、帰蝶の肩に掛ける。
その衣は暖かく、微かに信長の匂いがした。
「との…?」
帰蝶が問いかけると、信長はなにも言わずに帰蝶を抱え上げ、また馬に乗り城へ戻った。
城に着いた頃にはすでに日が沈みかけていた。
奥へはいると、城の中は大騒ぎだった。
それはそうであろう。
嫡男夫婦が、葬儀をすっぽかしたのだ。
前代未聞である。
迎えにでたあやめが程々困ったように見えた。
「姫さま…」
あやめはいまだに美濃にいるときと同じように‘姫さま’と呼ぶ。
まずいのではないかと帰蝶は思ったのだが、信長が許したのだった。
時々信長の考えていることがわからない。
だが信長のそういうところに、元々頭のきれる帰蝶は惹かれるのかもしれない。
とにかく信長という男は見た目や最初の印象だけでは量れない男なのだ。
奥へ入るとそこには守り役の平手政秀が待ち構えていた。
心なし顔色が悪い。
無理もないと帰蝶は思い、平手に同情した。
「なんだ爺、わざわざ待っていたのか」
「若殿…いえもうあなた様は家督を継がれたら…」
「そうは簡単にいくかな?」
平手の言葉を信長は遮って尋ねる。
「勘十郎の一派が黙っていまい?」
「そ、それは…」
平手が口篭もると、
「まぁよい、そんな事はどうでもいい、信行が何をしようと俺はかまわんよ」
本心から信長が言っていることは帰蝶にも分かった。
いま、信秀に死なれ、織田家は崩壊寸前だった。
本家の織田家もこの隙を突いてくることは間違いないし、信秀の跡目争いが起きることは必須だった。
帰蝶は葬儀の場で目にした勘十郎信行の貴公子然とした立ち居振舞いを思い出す。
「分かっていらっしゃるならどうか、今までのことは改めて…」
平手の小言もなぜか弱々しかった。
葬儀のことだけでも心労が重なっていただろうに、そこへ来てこの信長の所業である。
信長と帰蝶が消えたあと、平手が集まっていた皆からどんな責めを受けたのかを想像すると帰蝶は胸が痛かった。
「平手殿、本当に申し訳ありません。でも殿には殿のお考えがあってのこと。殿のことを信じて辛抱してくださいませんか」
謝るはずのない信長に代わって帰蝶は平手に頭を下げた。
平手の心情は察するが、悲しいかな平手には信長の心のうちは見えていないようだった。
平手はうな垂れたまま帰っていった。
その小さく見える背中を見送って帰蝶は切なくなる。
平手は唯一の信長の見方だというのに。
(平手殿のでさえ、殿の真意は見えていない…)

夕餉のあとも信長は黙ったままだった。
帰蝶も黙ったままそこに居た。
尋ねたいことは山ほどあったが、今は聞く時ではないかも知れないと思った。
「帰蝶…」
「はい」
沈黙を破ったのは信長の方だった。
「俺が親父に死なれて、今どんな気持ちなのか分かるか」
いきなりそう帰蝶に問い掛けてきた。
「殿は…悔しいのでしょう」
帰蝶の答えに信長が意外な顔をする。
「どうしてそう思う?」
信長の顔に帰蝶もやっと心が緩んだ。
「ひとつには時期が悪すぎます。殿の準備がまだ整っていない。もう少し時間が欲しかった。これが多分一番の理由」
「ほう?…」
信長が面白そうに帰蝶を見た。
「お前が俺の計略を読んでいると言うのか」
その言葉に帰蝶は笑顔を返した。
「俺は女ではありません、殿がそう言いました。俺の役目は殿と一緒に戦う戦友です。少しは殿の考えていることも分かっているつもりですが」
帰蝶は信長と二人きりの時しか見せない顔と言葉で答えた。
美濃に居る頃、父親の前でしか男の言葉と表情は見せなかった。
だがここへ来て信長に正体がばれた時、信長は父道三にしか見せなかったそのありのままの姿で居ることを望んだ。
女なら他にいくらでも居ると言われた帰蝶も腹を括った。
自分が信長に対して女である必用はない。
二人きりのときは言葉も態度も本来の自分に戻っていた。
もちろんこれを知るのは信長とあやめの二人だけだったが。
信長はそんな帰蝶を面白そうに見て、
「なら他の理由は?」
そう尋ねた。
帰蝶はその言葉に表情を曇らせて、
「あんな死に方をなされた父上に対して…無念なのでしょ?」
そう答えた。
信長は黙っていた。
まだまだ元気に戦に出られた年齢で、女と酒に体を壊し、死を早めたのは明らかだった。
帰蝶も早死にした信秀を哀れむ反面、恨みがましくも思ってしまう。
(殿が可哀想…これからのことを思うと…)
信秀の死を一番惜しんでいたのは、たぶんこの信長だ。
自分の父の力も偉大さも充分わかっている。
だからこそ父の存命中にあんな無鉄砲なことが出来たのだ。
信秀あってこその自分だと自覚していた筈だった。
だがこうなると信長の計画は狂ってきたに違いない。
(どうなさるおつもりなのか…)
帰蝶の言葉に虚を衝かれたような信長だったが、しばらく考えた後で
「で?おまえはこの俺がこの後どうすると思う?」
いつもの鋭い眼差しで尋ねた。
「なにもしない…」
「なんだと?」
「何もしません」
「なぜだ」
信長は面白そうに笑っている。
その顔につられたように帰蝶も笑顔になりいたずらな表情を浮かべ、
「だって、敵ばかりだから」
深刻なことを何でもないように答えた。
「殿はこれからあちこちの敵に目を配り、どこが先に仕掛けてくるのか見極めなきゃならない。来るのは今川か、それとも織田か…それとも…」
「それとも?」
益々信長は面白そうな顔をする。
「美濃の道三か…」
帰蝶は自分の父親の名を上げた。
当然である、この好機を父道三が見逃すはずはなかった。
「さすがだな、といって誉めてやりたいが…いまひとつ甘いな」
「え?」
言い終えた信長は帰蝶を自分の懐に抱き寄せた。
驚いただけではない意味で鼓動が跳ねるのを帰蝶は感じた。









−綺譚 メモ帳−

信秀はなかなか豪胆な人であったようです。
しかし、諸説はあるものの四十ちょっとで亡くなってしまった。
そしてこれも事実らしいが二十数人の子供…
つまりそれくらい女に忙しかったらしく、
早死にもそのせいと言われている。
一説には腹上死説もあるくらいで、女とやってる時に卒中を起こしたとか、逸話もそれなり。
武人としては‘尾張の虎’と言われたくらいだし、その父(信長の祖父)が土台は築いたらしいが、一代であれだけの領地を手に入れるということは、信長ほどではないにしろ、かなり優秀な戦国武人だったに違いないと思います。
だから早すぎる死は信長にとってはとてもショックで、男としてもその死を惜しんだのではないでしょうかね。
母に疎まれて育った信長には父だけだった、と言う見方もあります。
信秀は当然、信長の日常や所行は知っていたはずなのに最後まで廃嫡にせず、しかも自分の懐刀の平手を守り役に付けていたところを見ると、やはり信長に対して感じるもの、
もしくは何かを見抜いていたのかも知れません。
祖父、父と優秀さに磨きをかけて、そしてその子信長は歴史に名を残す人物となるのですね。