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織田の家中でもその話は広まった。
ただでさえ居心地の悪かった帰蝶はさらに白い目で見られた。
やはり帰蝶が知らせたと思われているらしい。
単純に考えればそういう時の為に敵に嫁ぐ意味もあるわけで、そう考えるのは自然の成り行きでもあった。
だからそれ自体は仕方ないと思うのだが。
今回の帰蝶の憂鬱は信長が自らその話を帰蝶に持ち掛けたことである。
普通は帰蝶が探るなり、偶然つかんだ情報を実家へ送るのなら分かるが、信長は自らその話を帰蝶に持ち掛けて、実家へ知らせろとまで言ったのだ。
その真意がわからなかった。
帰蝶が悩むのはその一点だけ。
あとは平気だと思ったのだが、侍女たちでなく家老同士の話まで聞こえてしまった時にはさすがに気が重くなった。
「殿は帰蝶様にいいように扱われているのではあるまいな」
「なにしろ女とは言ってもあの蝮の娘だからなぁ」
「うつけだと世間に公表するようでは困ったものだ」
「まさかご寝所でいろいろ聞き出されているのでは」
「まさか」
「わからんぞ」
「たしかに、困ったものだ」
侍女が無責任に話す噂話とはわけが違う。
家老たちにそこまで下世話な噂を立てられて、しかも信長を無能呼ばわりするとは何事なのか。
帰蝶は腹が立ってさすがに一言言い返したかったのだが、立ち聞きした気まずさと、なにより寝所で信長から聞かされてしまったのは確かなのだ。
そのことに関しては言い返せないことに気づき辞めた。
尾張へ来てはじめて悔しいと思った。
なにを言われても言い返さなかったし、反論もしてこなかった。
陰でいろいろ言われてきたことも知っているが、聞かなかったことにしてきた。
けれど自分のせいで信長までが悪く言われる。
いよいよ自分の存在があやふやになってきた。
災いを蒔くだけの存在ならば居ない方がいい。
帰蝶は自室に篭ってじっと考えていた。
「どうしたのだ」
夜になって口数が少ない帰蝶に信長が尋ねたが、帰蝶は何も言わなかった。
帰蝶の方もなぜ信長は自分に何も言わないのかと思う。
こういうことになって、城中の噂も知っているだろうに。
やはり我慢しきれずに帰蝶の方から問い掛けた。
「なぜ責めないのです」
「知らせたのか」
「いいえ」
「ならいいではないか」
「信じて下さるのですか」
だがその問いに信長は答えてはくれなかった。
不意に胸の内が冷たくなる。
やはり信じては下さらない。
絶望的な気分になった。

だがそんな帰蝶の疑問が解ける日が来た。
ある日。
たまたまだったのだが珍しく昼間から大人しく城に居た信長が家老達と言い合っている場面に遭遇した。
柱の陰から盗み聞きするような形になってしまったが、帰蝶のことを信長に諫言する家老達に対して信長は
「なぜそのようなことを言う。帰蝶は俺の妻だぞ!敵に内通しているなどということがある訳がない。帰蝶を悪し様に言うことは俺に対する暴言だぞ!」
そしてそのあと、帰蝶に馬を出さなかった厩番を辞めさせてしまったのである。
「俺の命令が聞けないならいらん」
そう言って。
帰蝶は自分のせいでそんな事になったことを申し訳なく思い、信長にとりなしたのだが
「俺がお前に自由に馬に乗って良いといったことは知っていたはずなのに、家老達に確認を取るなどもっての外ではないか。あいつの主人は誰だ」
確かにそうなのだが、
「勝手にそんな事をしたのだから、本来なら切って捨てても文句は言えまい。だがそんな事をしたらお前が気に病むと思ったから暇を出すだけにしたのだ」
文句があるか、と言わんばかりに言われれば帰蝶には何も言えなかった。
「では、わたくしのことを信用してくれるのですか?」
帰蝶の勇気を出した問いかけに、
「勘違いするではないぞ、帰蝶」
例の恐いくらいの眼差しで睨まれ
「今回のことはお前がやっていないと言った。俺はお前が嘘をついていないことくらい見抜ける。だからくだらないことで騒ぐ家臣たちを怒ったまでだ」
「では…」
「今回のことは信じる。だがお前自身を信用しているわけではない。それはお前だけでなく誰でも同じだ。人の心は分からぬ。自分のことも分からぬのに、他人の言葉など信用できるか」
それはずいぶん寂しい言葉だと思いながら、帰蝶はどこかで納得していた。
そうなのかもしれない。
約束事や言葉などこの時代にどれだけの価値があろうか。
明日は親子兄弟でも殺しあうかもしれないのに。
「帰蝶…」
いきなり抱きすくめられて唇をふさがれた。
不意のことでなにが起こったのかわからない帰蝶はされるままだった。
「との…っ!」
赤くなり抗議すると、
「帰蝶…裏切るなよ」
熱い眼差しで見つめられた。
「は…い」
「俺は一度でも裏切った奴を許すほど心は広くない。俺のそばに居たかったら裏切るな」
「置いて下さるのですか」
「お前が望むならな」
「このまま居てもいいのですか、わたくしは男ですが」
「別に問題はなかろう」
どういう意味なのか分からなかった。
この時代男色も珍しくはないが、正妻が男というのは差し障りがある。
「ですが…」
「ごちゃごちゃ言うな。世継ぎなら他の女にも産める」
帰蝶が傷つくことをあっさりと言ってのける。
「不満なのか」
「いいえ、そんな…」
「ばか者、不満だと顔に書いてあるわ」
信長は笑い、帰蝶は赤くなった。
「くだらないことを考えなくともよい、お前にはお前の役目がある」
怪訝な顔をした帰蝶に、
「お転婆な御台所は子を産む代わりに俺と一緒に戦に出ればよいわ」
帰蝶はあっと驚いた。
もちろん冗談であろう。
けれど信長は帰蝶に、自分の居場所を与えてくれるつもりなのが分かったのだ。
おそらくこのところ帰蝶が悩んでいたことなどお見通しだったのだ。
帰蝶には帰蝶の役割があると。
帰蝶のやり方で信長を支えればいいとそう言ってくれたのだ。
思わず涙が零れた。
そんな帰蝶に
「蝮の子は蝮だ。いずれ噛まれるやも知れぬ。だがそれもいいさ。面白いではないか。近くに危ないものを置いておくという緊張感もな」
先ほどは裏切るなと言っておきながらその言い草である。
「との…わたしは…」
「別に刃向かってもよいのだ。お前がやられるか、俺がやられるか。強いものが残るだけだ。この世の中はな」
この人はすごく寂しい人なのではないかと、この時帰蝶は思った。
「信長さま…」
改めてかしこまって帰蝶は頭を下げ言った。
「どうぞ末永く宜しくお願いいたします」
初めて信長に伝えた言葉は帰蝶の本心だった。
信長がどう思おうと、この先帰蝶が信長を裏切ることはない。
たとえ信長が死ぬ時までそれに気づかなかったとしても、いまこの時に帰蝶の気持ちは決まってしまった。
「お前と過ごす時間は面白いだろうなぁ…」
それが信長の答えだった。
西日の差す部屋で帰蝶は信長の正室として生涯を終わることを決意した。

―完―


−綺譚 メモ帳−

第二部、終了でございます。
書き始めた当初はみなさまの反応が恐くて第一章だけでもいいやと思い、書いてみました。
反応が良かったので第二章も書かせていただきました。
一応最初のもくろみとしては、この二つの章はセットで完了になります。
作者もここまでしか用意してなかったというのが正直なところで、
予想以上にと言いましょうか、思いがけないほどに高感触だったこのお話の続きはどうしようか…
と、思っております
みなさまの反応次第でまた書くのもいいかな、と思いますが
一応の終了です。

ここで少々歴史的なお話に戻しますと、
最後のエピソ−ドに出た、美濃側の重臣が寝返った云々のお話ですが、
各資料や小説などを読みますと、そう言うことがあったらしい…という事が書いてあります。
もちろん事実は定かではありませんが、
小説などではやはり美濃の方が実家に知らせたらしい…などという展開が多いですね。
ドラマティックに言うと、その事実を信長が庇ったために、美濃の方はえらく感動して
信長に付いていく決心をしたとか言う展開が非常に多いです。
事実はどうなのでしょうね?
事実は小説より奇なり…私はこの言葉が結構好きなんですけど、
あんがい事実は他のところにあるかも…などと思い、今回のような展開で書いてみました。
まだまだこの二人、スタートに立ったばかりではありますが、
愛情と言うよりは信頼と言うもので結ばれた二人が幸せであったと願いたいです。
私が大好きな信長公は本当は孤独な人であったと思ってしまうので、
寂しくないように同士は欲しいかな?なんて(笑)

みなさまには本当に思いがけない声援を送っていただきありがとうございました。
すごく励みになり、また自分と同じように思って下さるみなさまの言葉に感動しました。
また感想をいただけなかったみなさまにも、カウンターの数字が示すとおりに
たくさんの方に通っていただき、読んでいただきました。
こんなに嬉しいことはありません。
続きが読みたい、の感想も一番多かったのがこの作品です。
また機会がありましたら、ぜひこの二人と共に成長したいです。
本当にありがとうございました。

  −紫逢瑠依−