|
あれからも信長は時々、帰蝶を遠乗りに連れ出してくれた。
どういうつもりなのかはわからないが、あれ以来、帰蝶の身の上や今後のことについて信長はなにも言わなかった。
もっと不思議なのは帰蝶をずっと抱いて眠ることだった。
文字通り抱いているだけで、それ以上なにをするわけではない。
いわば抱き枕状態なのだが、帰蝶には何とも言えない気分だった。
家臣の手前は大変ありがたかったが、相変わらず信長が考えていることがわからない。
そんなふうに時間だけが過ぎていった。
信長が相手をしてくれない日は本当に暇だった。
相変わらず城内をうろつけば、胡散くさげに織田の家臣から睨まれたし、一人で遠乗りなどもってのほかだった。
帰蝶が一人で城の外へ出るなど許してもらえるはずがない。
それは至極当然のことだったので、帰蝶はしいて不満は口にしなかった。
敵の中にいるような感覚は知らずに神経をすり減らしているようだったが、そんなことははじめから承知の上だったので、今更である。
皮肉なことに信長と居るときだけが、心が軽くなるときだった。
信長は実際には手を出してこないものの、隙があればすぐに帰蝶を脅すような真似をした。
いきなり腕をつかまれたり、押し倒されたりしたことがある。
だがそれだけで、それ以上のことはしない。
しないのだが、帰蝶はそのたびに脅えてしまう。
脅えているのは心ではなく、本能なのか身体の方が勝手に反応して逃げを打ってしまうのだ。
以前本気でのしかかられた時の恐怖なのか。
女のように脅える自分が嫌なのだがどうにも出来ない。
どうやら信長はそんな帰蝶を面白がっているらしい。
悪趣味なのだが、だからといって信長が嫌なのかというとそうではない。
ある意味で信頼できると思っているし、男としても魅力のある人物だと思う。
(自分が女なら…)
正直、複雑な育ちのせいで今までも男と女という自分の中途半端な立場に苦慮したことはあったが、今回は帰蝶も行き止まりになってしまった。
女なら諦めてこのまま信長に仕えることも出来る。
けれど、どうあっても帰蝶は本当の意味で信長の妻にはなれない。
ここ最近はそんな事ばかり考えている自分に気づく。
女として育てられてもそれは見た目だけで、帰蝶は自分は男だと思っているし父も人目がないところでは女扱いはしなかった。
だから帰蝶も女になりたいなどと思った事はない。
けれど今の状態は辛いものがあった。
美濃から来た、と言う以上に自分の居場所が見つけられない。
家臣たちに白い目で見られても平気だが、自分が信長の妻にはなれないということがこの先の自分の居場所を奪っている気がするのだ。
信長はいつまで帰蝶をこのままにしておく気なのだろう。
ずっとこのまま、と言うわけにはいかない。
その時になって帰蝶はどうすればいいのだろう。
まさかここへ来てこんなことになるとは思っていなかったので、帰蝶は途方にくれる。
信長も殺せない。
美濃に逃げ帰ることも出来ない。
そして自分を殺すことも出来ない。
自分が用意してきた道はすべて絶たれてしまった。
それを先回りして塞いでしまった信長はさすがというべきである。
一緒に暮らせば暮らすほど、信長が只者ではないのは分かる。
帰蝶には信長がなにを思って自分をこのままにしているのかわからなかった。
そんなある日、
相変わらず外へ出たままの信長から使いが来た。
珍しいというか初めてのことだった。
多分新しく拾った子供なのだろう。
門番に通してもらうと帰蝶のもとへ来て
「信長様が待っているから、いつもの河原へ来て欲しい」
そう言ってきた。
珍しいこともあると思って暇を持て余していた帰蝶は身軽な格好になり、厩へ行った。
厩番に楓を出して欲しいというと、酷く胡散臭げに見られた。
「わたしの一存では出来ません」
「信長様から使いが来たのです、それでも駄目ですか」
今日は帰蝶も食い下がったのだが、
「ご家老様に聞いてきます」
そう言って聞いてはもらえなかった。
しばらく待たされた上に出てきた答えは
「やはり出来ません」
帰蝶はため息を吐いて諦めた。
仕方がない。
おそらく反対に美濃であっても、敵から嫁いできた人間をひとりでふらふらさせないだろう。
この時、聞きに行った相手が、信長の目付け役の平手政秀あたりならどうにかなったかもしれないが、家老の中にも帰蝶どころか信長にさえ反感を抱いているものが居る。
自分の実家でも覚えがあるので帰蝶はその辺のことはいつも納得していたが、今日は信長からの命令といってもいい。
だがそれを証明するものは居ない。
先ほどの子供など、居たとしても信用はしてもらえないだろう。
信長は怒るかもしれないが、ここは諦めるしかなかった。
その夜。
夕方というよりは暗くなって帰って来た信長はちらと帰蝶を見て何も言わなかった。
夕食後、いつものように帰蝶の膝を枕にして横になり急に言い出すまでは。
「なぜ来なかった」
「すみません」
「謝れとは言ってない、理由を聞いている」
「行けなかったのです」
帰蝶は事実だけを告げた。
厩番や家老達のことを告げ口するつもりはない。
それでなくとも帰蝶の立場は微妙だし、取りようによっては信長さえ織田家では微妙な立場なのだとここへ来てからの帰蝶は知った。
無理に波風を立たせる必用はない。
そんな帰蝶の詫びを信長がどう受け取ったかはわからない。
いきなり腕をつかまれて引き寄せられたものだから、帰蝶は膝の上にある信長の顔を間近で覗き込むような格好になってしまった。
「理由を聞いたのだがな」
時折見せる恐いくらいの冷たい目でじっと見詰められて帰蝶は凍った。
信長は相手を時々こんな目でじっと見る。
心の裏側まで見透かされそうな瞳で。
家臣たちはこれが恐いというのだろうが、帰蝶が凍るのは信長自身が恐いというよりも、信長にこんな目をさせる現実の方だった。
信長はけして冷たいだけの人間ではないのに、これが信長だと思い込んでいる人間のなんと多い事か。
家臣もほとんどが信長は冷たい人間だと思っている。
帰蝶はそのことが寂しいと感じていた。
自分の想いが顔に表れていたかはわからない。
帰蝶もただじっと信長を見詰めかえした。
寝床に入ってから、信長はいつものように帰蝶を抱き寄せると急に妙な話をしだした。
「蝮のところに間者を送ってある」
「は…い?」
「お前のとこの家老の二人は俺の間者だ」
「え?」
さすがの帰蝶もうろたえた。
父は知っているのだろうか。
「教えてもよいぞ」
「は?」
「蝮に手紙でも書いて知らせてやれ、お前の手柄にしてもよい」
「なぜそんな事を…」
帰蝶は信長がなにを考えているのか分からなかった。
帰蝶が尋ねても信長はそれ以上は答えなかった。
それでも帰蝶は父に手紙は書かなかった。
だいいち、信長の話が本当か分からないし、本当だとしても帰蝶が実家に出した手紙がそのまま父に秘密を知らせるとは思えない。
織田の家中がそこまで間抜けとは思えないし、万がいち信長の言う通り美濃の家老が織田に寝返っていたとしても、それなら父道三が気づかない筈がないと思う。
また本当に気づかないのなら父もただの人になったと言うわけだ。
帰蝶は父に対しては絶対の信頼を置いている。
まったく心配をしていないといったら嘘になるが、その信頼がぐらつくことはない。
むしろ帰蝶にはなぜ信長がそのような話をしたのか、その方が気になって仕方なかった。
しかし
一週間ほど経って…
美濃の家老が二人、父道三によって切り捨てられたという知らせが届いた。
その知らせが信長と帰蝶、二人のもとへ届いた時に信長はちらっと帰蝶を見た。
帰蝶はひとことも何も言わなかった。
信長も
「そうか」
と言っただけだった。
帰蝶は信長にどう思われているのか気になった。
自分は何も言っていない。
けれど言葉に出してそれを言うことなど不要に思えた。
信じてくれているなら何も言わなくとも信じてくれる人だった。
だがもし…疑われたなら。
信長に言い訳は通じない。
裏切りは絶対に許さない人間だった。
帰蝶の言い分は問題ではなく。
信長が帰蝶という人間をどう思っているのか、それだけだった。
二人きりになった後、だが信長はこう言った。
「どうやら蝮に知らせた人間が居るらしい」
帰蝶は目の前が真っ暗になった。
|