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帰蝶が美濃へ来て一週間が経った。
三日目に信長が遠乗りに連れ出してくれた後は一人おとなしくしている。
信長は忙しいのか、あのあとは昼間ほとんど姿を見せない。
実はあの明くる日、また退屈で死にそうになった帰蝶は馬を借りようと思った。
しかし、一人で馬屋に行った帰蝶に、厩番は胡散臭そうな目で言ったのだ。
「殿の許可もなく馬は出せない」と。
許可はある。
信長はいつでもいいといった。
自分が付き合うともいってくれた。
楓は帰蝶の馬だから好きな時に乗っていいとも言ってくれた。
何よりも信長の正室になった帰蝶に対して失礼極まりないとも思う。
けれど帰蝶は引き下がった。
ここの家臣から見れば帰蝶は信長の正室の前に敵の間者にも等しい。
うろうろされたら目障りなはずだった。
まして供もつれずに一人で自由にさせることなど論外だろう。
帰蝶にもそれは分かっていた。
実際なにかわかったら実家に何としてでも知らせようとするだろう。
それが自分の役目だった。
それが現実。
だからずっと自分が影で見張られていることに気づいても仕方がないと思った。
鬱陶しいと思ったが織田家から見れば当然のこと。
自由に動けないというよりは、なんだか面倒になってしまってその後はずっと部屋に篭っていた。
退屈だった。
どうすればいいのだろう。
こんな無駄な時間を過ごすつもりはない。
早く信長の弱みを握って、あやめとともに抜けだそうと思うのに何もする気が起きなかった。
信長は毎日夕げの時間には帰ったが、すぐに寝てしまう
毎晩、帰蝶は置き去りにされたように取り残されていた。
その晩は信長の帰りが早かった。
夕げも早目に済ませ帰蝶はぼんやりとしていた。
どうせまたすぐに信長は寝てしまうだろう。
自分も寝てしまった方が退屈しないのだが…
昼間も時間を持て余しているので、最近は夜もなかなか寝付けなかった。
そんな帰蝶に珍しく信長が話し掛けてくる。
「顔色が悪いようだが?」
「そうでしょうか?」
別に加減が悪いわけではないのだが、退屈な毎日にいささかうんざりしているのは確かだった。
それとは別に気持ちの中に焦燥感もある。
信長がごろんといつものように横になった。
いつもと違うのはそこが帰蝶の膝枕だったことだ。
一瞬驚いたが、声には出さなかった。
夫婦なのだからこれくらいは当たり前だろう。
「退屈なのか?」
どうしてこの男は帰蝶の心を読むのがうまいのか。
けれど
「いいえ」
なぜか帰蝶は素直に告げられなかった。
厩番の言葉を告げるのはたやすいが、幼稚な告げ口をしているようで嫌だったし、自由にできないのはむしろ当然なことだと思ったからでもあった。
「そうか?」
下からじっと見つめられる。
まるで嘘を言ってないかと探られているようで居心地が悪かった。
気まずい沈黙が流れたあとに、帰蝶はいきなり腕をつかまれた。
あっと思った時は信長の上へ倒れ込み、そのまま抱え込まれて男の下になっていた。
油断していた。
普通ならこんなにたやすく組み敷かれたりはしない。
一週間もの間、何もされなかったのですっかり警戒心をなくしてしまったのだ。
悔しくて思わず唇を噛む。
「どうした?案外あっけないな」
そう言ったとたんに着物の胸元から手が滑り込んできた。
「ぁ…やめてください」
「なぜだ?夫婦なのに?」
からかうように聞いてくる。
(どうしよう…)
柄にもなく帰蝶は混乱した。
こんな事ははじめてだった。
「やめっ…」
「誰かを呼ぶか?大声を出して誰かに来られたら困るのはお前ではないのか?」
帰蝶は青ざめた。
(やはり知られてい…る?)
まさかと戸惑ううちに信長の手が直に肌に触れた。
そのまま帰蝶の平らな胸に触れてくる。
着物の前を乱暴に大きく開かれた。
「ぁ…」
帰蝶が小さく叫んだのと、信長が息を飲んだのが一緒だった。
帰蝶は全身の力を抜いた。
(殺される)
覚悟を決めようとしたが、その時もっと大きく着物をはだけようとした信長に本能的に逆らった。
「やめて!」
その瞬間、信長の瞳の中に剣呑な光りが宿る。
あっという間に帰蝶は両手を押え込まれた。
「ここまでばれて逆らうなんていい度胸だな。ばれないとでも思ったのか?俺も馬鹿にされたものだ」
帰蝶は首を振った。
ばれてるかもしれないと思っていた。
少なくともずっと騙せるとは思っていなかった。
信長は馬鹿ではない。
そんな事はすぐに分かっていたのに。
「なら、なぜいつまでもぐずぐずしていたんだ?チャンスはやっただろう?時間も足も…」
帰蝶は唖然とした。
そういうことだったのか?
楓をくれて帰りたいかと聞いてくれたのはそういう意味だったのか?
「もう少し利口かと思った」
信長が冷たく呟く。
「さっさと逃げ出せばいいものを、それとも本気で俺を殺せると思ったのなら身の程知らずだな」
忠告だったのか。
さっさと美濃へ帰れという、あれは忠告だったということか。
なぜか帰蝶は寂しいと思った。
慰めてくれたのかと思ったのに、ただの脅しだったとは。
しかも自分はそれに気づけなかった。
なぜのんびりとこの男の側にいつまでも居たのだろう。
信長の言うとおりいつまでもぐずぐずしていたせいだ。
自分でも分からない。
でもあの時、この男のなにかが分かったような気がしたのだ。
だからもう少し分かりたかった。
そばに居たかったのだ。
「このまま殺すこともできるぞ。お前の正体を世間にばらしたら蝮はいい面の皮だな」
端正な顔をした男はそんな酷い言葉を吐いた。
「知ってたくせに…」
どこで信長が気づいたか帰蝶には分かる。
やはり最初に湯殿で見られていたのだ。
知っていて、黙っていたのだ。
腹で笑っていたのだろう。
男だとばれて無事なはずがなかった。
「笑っていたんだ、しってて」
帰蝶の言葉に信長の表情がなくなった。
「そうだ、いつだって殺すことはできた。だからチャンスをやったのにな。だがもう逃げられない。こうやって首を絞めるか?簡単だぞ」
片手で帰蝶の両手首を押さえたまま、もう片方で細い首を絞める。
ほんの少し力を加えられただけで息が詰まる。
視界が揺らいで頭の中が白く濁った。
喉が焼け付く。
「それともこれで刺し殺してやろうか?」
信長の視線の先には帰蝶の懐剣があった。
信長を殺す為の懐剣だった。
帰蝶の本能が動いた。
下から信長のからだを蹴り上げると、懐剣を奪い取った。
素早く離れて身構える。
「ほう?俺を刺すか?やってみろ」
面白そうに信長が煽る。
帰蝶は剣を抜いた。
本来女性ものの守刀だった。
殺傷力は低い。
殺すには信長の懐に入らなければ無理だった。
だから帰蝶が次に取った行動は
「なにをするっ!」
信長が焦って声を荒げたのは帰蝶がその刀を自分の首筋に当てたからだった。
殺されるならせめて自分で死ぬ。
なにもできなかった。
自分はなぜここへ来たんだろう。
なにもできないなら来る意味がなかった。
しかも男だとばれて、恥を晒しに来ただけだった。
父上に申し訳ない。
せっかく女にしてまで守ってくれた命をこんな形で捨てることになった。
でもせめて父に恥をかかせたくはなかった。
「おねが…い、男だってことは黙ってて」
なぜそんな事を言ったのかわからない。
死んでしまえばそんな事はどうだってよかった。
けれど、惨めな気がしたのだ。
父も信長も笑い者だろう。
自分のせいで。
そんな自分の存在が急に疎ましくなった。
「お願い…」
驚いた信長はその言葉に我に返った。
「わかった」
ほっとしたのだろう。
帰蝶は二度目の油断をした。
その時、目の前に信長が襲い掛かってきた。
(殺される!)
自害もさせてもらえない。
そう思った瞬間、意識が闇に落ちた。
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