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『楓』は足が速くいい馬だったが、前をゆく信長の馬はその比ではなかった。
それとも乗り手が上手だからか。
帰蝶は女を装うことも忘れて全力で追いかけた。
気がつけば川の向こうに美濃の国境が見えるところまで来ていた。
供もいない。
いつも信長は自分の信頼の置ける若いものだけを必ず連れているはずなのに。
「ついてこられたみたいだな」
「と…の…」
帰蝶はついてこられたものの、息が上がって思うように話せなかった。
信長の方はさすがと言うか、何でもない顔をしている。
「さすがだな、蝮の娘は」
馬鹿にしているのか、感心しているのか、相変わらずその本意はわからない。
「なぜ私をここへ?」
一番疑問に思っていたことを尋ねる。
「退屈していたのであろう?」
何でもないことのように言う言葉に目を瞠った。
全然無視されているのかと思ったらそうではなかったらしい。
「ここにくれば美濃が見えるぞ」
何気ない言葉にはっとした。
だが意地っ張りの帰蝶は強い目で見つめて言い返した。
「私が逃げるとは思わないのですか…」
「なにもしないうちにか?」
ふふんと、鼻を鳴らすような調子で信長が答えた。
「なにをっ…」
「寝首をかきに来たのだろう?蝮の娘は」
そこまで言われてはごまかす言葉もなかった。
ただ負けずに睨み返す。
「まぁ、出来るものならやってみるんだな、それで逃げ切れたのならこの国も大したことはない」
その言葉を聞いて帰蝶は不思議な気持ちになる。
たしか美濃の父も似たようなことを言っていた。
『帰蝶が信長を倒せるようならそれだけの男。反対に帰蝶がやられるならそれまでのこと』
「いいのですか?」
挑むように言った帰蝶に
「だからやってみればいいと言ってる」
まるで天気の話でもするような、あくまでも相手にされていない様子に帰蝶は腹が立った。
自分は女ではない。
その気になれば自分にだって。
そう気負った瞬間に、
「寂しくなったらくればいい、俺で良ければつき合うが」
さりげなく言われて不意に込み上げるものがあった。
それをぐっと押さえて帰蝶ははっきりと答えた。
「ありがとうございます」
けして寂しいわけではない。
自分は無理矢理来させられたわけでもないし、しっかりした目標もある。
それにまだこちらへ来て三日なのだ。
寂しいわけがない。
なのに…なぜだろう?
そしてそうやって帰蝶を気遣うような素振りを見せる美しい男の横顔がもっと寂しげなのは。
帰蝶は美濃にいる頃、よくあの川向こうへ来ていたのだ。
自分の父が宿敵にしている、織田家の領地。
自分の正体が知れていないのをいいことに、帰蝶はよく美濃の中で馬を走らせた。
その中でもここへはなぜか引き寄せられてしまう。
そして向こうから見ていたのだ。
尾張のうつけと呼ばれていた男が、やはりよくこのあたりにいる姿を。
信じられないような奇妙な格好をしているからすぐにわかってしまった。
けれどその面は整っていて綺麗な男だった。
知性も感じた。
だから不思議でならなかったのだ。
そして確かめたいと、ずっと思っていた。
いつかきっとそばで見てみたいと。
それがまさかここで並んでこの景色を見ることになろうとは。
「美濃へ帰りたいか?」
「いいえ」
尋ねてくれた言葉へそれでもはっきりと否定する。
帰りたくても帰れないではないか。
今のままでは帰ることは出来ない。
逃げ出すなんて絶対に嫌だった。
そのとき、
不意に自分たちの間を突き抜けるように吹いた強い風に帰蝶は不安になった。
いったい自分は何者なのだろう。
女なのか、男なのかも定かでないような自分。
それまで大して疑問にも思っていなかったことが、急に重くのしかかる。
自分はどこへ行こうとしているのか。
「わたくしはずっと殿のそばにおります」
自分を誤魔化すため、そしてなによりも信長を騙すための『嘘』を言ったつもりの帰蝶は、それが信長に対する誓いの言葉になるなどとそのときは夢にも思わなかった。
天文18年(1549年)、時代の嵐は二人を飲み込むためにすぐそこまで来ていた。
―美濃の蝶 終―
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