|
あくる朝───
帰蝶が目を覚ますと自分の隣には誰も居なかった。
『信長』
この尾張の跡取りで、世間では「うつけもの」呼ばわりされている男。
だが昨夜の彼は優しかったと思う。
果たして世間で言うことが本当なのか、帰蝶はここ数日で何とか答えを出さなければいけない。
朝の支度をしに、あやめが来た。
「姫さま、大丈夫でした?」
心配そうなあやめに
「うん、あのまま寝ちゃったしね。話もしなかった」
「まぁ…」
あやめもきょとんとしている。
予想外の展開である。
「いったい…やはり噂どおりなんでしょうか?」
「ん?どうだかね」
「大丈夫なんですか?」
「わかんない…けど」
「けど?」
「なんだか面白くなってきた」
「まぁ、姫さま」
あやめが呆れた声を出した。
だが帰蝶の突拍子もなさには慣れている。
その生まれからして。
「殿さまはどちらに?」
「さぁ、起きた時はもう居なかったから。たぶん…」
よく晴れた空を見上げながら帰蝶が呟いた言葉にあやめはもう尋ねなかった。
帰蝶になにか思うところがあるらしいことが察せられたからだった。
信長はその日の夕刻、戻ってきた。
昨日は婚礼ということもあって至極まともな格好をしていたが、今日は噂に聞く奇妙な出で立ち。
それでも湯浴みは済ませたらしく小綺麗だった。
ちょうど夕げの支度が整ったところだった。
あやめが給仕をして部屋の隅まで下がると、信長がどっかりと腰を下ろして尋ねる。
「俺が帰ってこなかったら、夕げはお前ひとりだな」
「そうですね」
まさかいくら半身のように過ごしても、あやめと食事をするわけにはいかない。
すこし考えるように腕組みをした信長を見て帰蝶は告げた。
「殿、朝はお早いようですが、夜くらいは一緒に食事をしていただけると嬉しく思いますが」
「うん、そうだな」
そう言ってさっさと食事をはじめた男を見て帰蝶はどことなく可愛いと思ってしまった。
一緒に食べたいといったのは、まんざらお世辞ではない。
夜くらい帰ってきてもらわないと一日顔を合わせる暇がなく、男の観察もできないのだ。
これではいつまでたっても信長の真実が分からない。
食事の後、何も話すでもなくごろごろと寝転んだままの信長に
「殿、眠るのでしたら床の方へ。風邪を引いてしまいます」
眠ってしまったと思い帰蝶が覗き込むように言うと、強い双眸が見返してきた。
「お前はあの蝮の娘だよな」
何を言いたいのかもわからなかったが、ここで負けるわけにはいかなかったので同じように強い瞳を据えたまま帰蝶も「はい」と答えた。
なにが言いたいのか。
女かと確かめて問うているのか帰蝶にも分かりかねた。
「蝮の娘はやはり蝮だよな」
わけのわからないことを言ってその強い眼差しを閉じた。
「ぁ、お床に…」
慌てて帰蝶が言うと
「ここでいい」
そう言ってまた床から少し離れたところで寝てしまう。
昨日と同じく帰蝶は自分の打掛をかけてやりながら思案した。
もしかして、自分が男だとやはり分かっているからこうやって距離を置くのか?
でも知っているなら黙っていることはない。
問い詰めるなり、裸にするなりすればいいのだ。
騙されたのだから切り捨てるのも簡単だろう。
何も言わないということはやはり気づかないのか?
ならなぜ距離を置く?
自分のことが気に入らないのか?
そう考えが及んだ時に、なぜだかむっとしている自分に帰蝶は気づいた。
今の状態は喜ぶべきことだった。
わからないのなら上等ではないか。
わからないという自信があったからこそ、ここへやってきたのだ。
自分の思うつぼなのに、なぜだか信長に無視されているようで腹が立つ。
姿形が美しいという評判通りな男の顔をもう一度ちらっと見やり、少々乱暴に帰蝶も床へ入った。
女の振りをすることがどうでもよくなったような気持ちになる。
だが、床へ入ったとたんに反省した。
自分の感情など二の次だった。
自分の立場と目的をよく自覚しなければならないと、自分で諌めて眠りに就いた。
朝目覚めると、やはり信長はもういなかった。
「まったく…」
帰蝶はため息をついた。
けして朝寝坊をしているわけではないし、眠っていても目聡い方だと思うのに信長はいつも知らない間にいなくなる。
全く不思議な男だった。
気配を消すにも限度がある。
「やはり、ただものじゃないな」
これは考え直さないといけないかも知れない。
この分だと、まだしばらく信長の本性はわかりそうにないし、この行動だとそう簡単に帰蝶が信長を討てるとは思えない。
少々武道の心得がある帰蝶だからわかる。
あの男はそう簡単にはどうにかなるものではない。
噂を鵜呑みにしない方が良さそうだった。
「それにしても…」
今日も一日どうやって過ごそうかと思う。
結婚をした正妻といえど、帰蝶はあの蝮の娘だ。
勝手に城の中をふらふらしたら、家臣達になにを言われるかわからない。
しかしこの部屋で毎日じっとしているのも苦痛だった。
あやめしか相手がいないし、そうかといって他の侍女達がどこで耳をそばだてているのかわからない中であやめと話せる内容などたかが知れている。
すぐに話題もつき退屈になる。
「姫さま、庭でも歩かれたらいかがです?前庭なら咎められないでしょうから」
「そうだな…」
生返事をしながら、そのあとは?明日は?と考えてしまう。
まさかこんなに窮屈だとは思わなかった。
美濃の城では父が好きにさせてくれていたから、武道の稽古もすれば、馬に乗って遠乗りもした。
いくらでもお転婆が出来たのだ。
もちろん身近な家来達しか知らないことだが。
仕方なくあやめを供に庭へ出ようとしたら、どかどかと床を踏みならす音がする。
それが誰かは一目瞭然だった。
出かけるときは猫より静かに出てゆくのに、帰るときはいつも騒々しかった。
「帰蝶、帰蝶」
そう呼びながら廊下を歩く声に
「はい、ここにおりますが…」
帰蝶が答えると、
「おまえ、馬は乗れるな」
「は…い?」
「連れていってやるから、一緒に来い!」
帰蝶の返事もそこそこに、着替える間も十分に与えず引きずられるように外へ連れ出される。
「うちの中で足が速くておとなし目のを選んでおいてやったから」
そう言ったのはどうやら駿馬の綺麗な姿をしたこの馬のことらしい。
「『楓』というのだ、雌だがいい馬だぞ。おまえにやる」
「わたしに…ですか?」
「そうだ、いつでも好きなときに乗っていいぞ。ただし当分は俺と一緒だ。何かあたっら困るからな」
一瞬見透かされたのかと、ドキンとして返事が遅れた。
「気に入らぬのか?」
「いえ、いいのですか?」
「なにがだ」
「これに乗って私が逃げたらどうするのです」
挑戦的に言い放った帰蝶に信長は微かに笑った。
(馬鹿にされ…た?)
「帰れるわけがないさ」
(やっぱり!)
カッとなって言い返そうかと思ったら、すっと抱き上げられた。
「あ、」
思う間に馬の背に乗せられた。
そして信長も自分の馬にまたがると
「行くぞ!」
そういってあっという間に走り出す。
帰蝶は何かを問う暇もなく後を追うしかなかった。
−続−
|